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北へ [reading / listening room]

(c) MO 2018


駅前のバスを使うまでもないらしく、レイは駅の売店の横にあった案内所から手にいれた観光案内の地図をひろげて、すでに東京から予約してあるホテルを目指して先に歩きはじめた。

東京駅から四時間くらいだった。新幹線を降りた時の開放感と、のどかな片田舎の春の匂い、生暖かくぬくもりをもった風が心地よい。夕暮れ時の駅前のふるびた町の風景もパリに住んでいるミスズには美しくエキゾチックに思えた。

レイは新幹線のなかで食べかけの昼の駅弁を膝にのせて、ステンレス製のサーモにいれたほうじ茶をおかわりしながら、嬉しそうに大きな黒い瞳を輝かせて話した。
「わたしの従兄弟が住んでるの。ほんと久しぶりなんだよ。でもそこに行くのには駅からさらに二時間もバスにのらないとだめ。ずっと山のなかだからね」
ミスズも買っておいた茶巾寿司を頬張りながら、「そうなんだ、でも楽しみじゃない? 」とうなずいた。

小さなPR会社を始めたばかりのレイとパリから東京に帰省中で幼なじみのミスズが、たがいの時間をやりくりした二泊三日の小旅行なのだから、特に観光目当てのつもりはなかった。レイがひろげている中学生レベルの漫画風の地図には、町中からあちこちに曲がりくねった太い一本道のさきに、カヌーが浮かぶ湖と数頭の牛が頭をならべて草を反芻している牧場が描かれている。その湖のそばには町営の温泉場があり露天風呂もあるらしい。

レイはその温泉場のことを振りむきながらミスズに報告すると、いつもの笑顔でミスズは親指を立てて微笑んだ。

「絶対に行きたいよ、そこ。二年前に京都で登った鞍馬山の露天風呂以来だね」

ミスズは駅前にならぶ土産物の店をひやかしながら、肩までのびたストレートの黒髪を輪ゴムで無造作にむすんだレイの背中の後について行く。極端なほどに方向音痴のミスズにとって、レイに先導されるままに歩くのが楽しみのひとつだし、風にやさしくのってくる彼女の髪の匂いが好きでもあった。そんな時にふっと、ミスズがその二年前の京都旅行でレイの土産に祇園の髪結いの道具店で買ってプレゼントした鼈甲の髪留めを使っているのを、一度も見ていないことを思いがけずに記憶の断片によみがえってきたけれど、ここで問いただすこともなく胸にしまった。

二人は駅前の商店街を通りぬけて何ブロックかの裏道を行ったり来たりしながら、二十分位で目的のホテルにたどり着いた。
六階建てのシンプルな赤レンガのホテルだった。一階のロビーには、駅前の制服販売店から仕入れたような紺色の襟がついた白いブラウス姿の三十代くらいの女性がいる小さなチェックイン・カウンターとレストランが奥にある。白い椅子とテーブルクロスが掛けられた丸テーブルが十席、ぼんやりと客を待ちくたびれたようにガラス越しの春の陽かりをうけながら静まりかえっていた。



バスタブからあがるのは、いつもレイが先だった。

渋谷から急行電車で十五分ほどにある木蓮の花がやっと咲きはじめた大きな庭付きアパート、そのリビングの奥にあるクローゼットルームが寝床になって布団が敷かれている。床にはレイがパリ土産で買ってプレゼントした丸い磨りガラスの照明が、灯りもなく置いてあった。

レイはバスタオルで身体を拭いてから、そのままの裸でバスルームをでて、リビングのCDデッキをオンにしてから、寝床の掛け布団をめくりあげシーツにうつ伏せになった。頭上高くにある横長の小さな窓からは、わずかな白い月明かりがこぼれていて、レイの若い身体とその背中から腰までの脊椎にそってある柔らかなくぼみを静かに照らしだしていた。

四月だというのに冷たいシーツが、レイの湯上りの肌にはかえって心地がよくおもえた。彼女は大きく息をすい込んでから、眼をとじて全身の筋肉をゆっくりと弛緩させる。左腕に額をあずけて、まだぬれた髪の先を白い中指でもてあそびながら、リビングルームのオーディオからそっと流れてくるラウンジ・ミュージックの音を感じていた。

もう午前一時を過ぎていた。昼間の駅前はスーパーや飲食店でにぎやかだけれど、アパートまでは銀杏の並木道がつづく閑静な住宅地なので、あたりは闇がすべてをのみ込んで口を閉ざしたままじっとしているようだ。ときどきは遠くの環状八号線からバイクの音が聞こえる。

しばらくしてから、バスルームのドアを開ける音とぬれた裸足で廊下を歩くぺたぺたぺたという足音がした。そして彼がバスタオルで髪をふきながら、レイのまだ湿った背中に言った。
「来週ミスズがパリから来るんだよね? 成田に迎えにでるの? レイが行くなら僕もつきあうけど」
「うん、もちろん行きますよ。エクスプレスの予約しとく?」
レイがうつ伏せのままで答えた、と同時に、突然に激しく降り始めた大粒の雨が、庭のベランダの屋根をばたばたばたと激しく打った。


明日にならないで
だってわたしは知ってるから
あなたが
わたしの手の届かないところに行くのを
あなたの前で
見せたくなかったけどずぶ濡れで
くしゃくしゃの顔で止めどなく泣いた雨の日

明日にならないで
だってわたしはもう知ってるから
あなたが
わたしをひとり置いて行ってしまうのを
でもあの雨の日に
わたしの大粒の涙と一緒に悲しみはあっという間に流れでたの

だから

わたしの人生で最後の一夜かもしれない

いまこの幸せを

あなたと分かちあうことが
できるなら


「お待ちしておりました。お二人様ツインの部屋で二泊でこざいますね。お部屋は五階の五〇七号室です。左の奥にエレベーターがありますのでご利用ください。ごゆっくりどうぞ」
レイはカウンターの女性から部屋のカードキーを受け取った。二人はエレベーターで五楷にあがって、人気のない廊下の非常口がある突き当たりの手前にある部屋の五〇七のプレートを確認して重いドアを開けた。

ベージュの壁紙が貼った明るい印象の部屋は、丁寧に清掃されていた。正面にグレーのカーテンで閉じられた両開きの大きな窓がある。その窓の下のサイドテーブルには、デスクライトとホテルの案内や地元の観光地図などが綴じられたファイルと電話が置かれている。それを挟むようにシングルベットが左右の壁によせてあり、紺色で竹やぶの絵が描かれた浴衣がそれぞれのベッドの中央に畳まれてあった。

ドアの左にはクローゼットと小型冷蔵庫が並び、右には洗面所とトイレ、その奥に小さなバスタブがある。右の壁には、カラフルな風景画の複製が銀のフレームにいれて掛けられていた。
磨かれているけれど古ぼけたクローゼットには、四つの木製のハンガーがぶら下がっていて、床には白い布製のうすっぺらなスリッパが前をむいて二足並べられている。冷蔵庫の中は空っぽで、ひんやりとした冷たさだけが静かにあるだけだった。

パリに住み始めてから八年になるミスズにとって、帰省してホテルや旅館に着いた時のひとつの楽しみなのだけれど、さっそく部屋の窓を大きく開けて外を眺めながら深く息を吸って、ゆっくりとゆっくりと吐いた。ゆるい風がミスズの鼻先をなでる。真下には三台の自家用車が離ればなれに停まっている大きな駐車場があり、のんびりとした春の夕陽をうけた赤い屋根の家々が続いている。空は高く、遥か遠くには靄がかかった新緑の山々が優雅な山水画のようにも見えていた。ミスズはパリの色とりどりの灯りが静かにきらめく夜景にも劣らないその自然の景観に捉えられて、眼を細めながらまた大きく息をついた。

「東京の街には、帰るたびにうんざりさせられるけど、この素敵な眺めを見ているだけですごく幸せな気分。ありがとう、レイ。わたしの大好きで大切な友人にたくさんのビズを」

「どういたしまして。ちょっと休んでから町を散歩して食事でもいかが? いちおう繁華街らしいものもあるみたいよ」
ベットに横になったままでサイドテーブルにあったファイルを見ていたレイが、両腕を頭の上の方に真っすぐに組んでぐっと大きく背伸びをして言った。




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