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パルプ・ドリームス/ジェフ・ライアン [reading / listening room]

パルプ・ドリームス


ジェフ・ライアン



1980年代初頭、リチャード・プリンスはニューヨークのイースト・ヴィレッジの一角にあるイースト12ストリートに住んでいた。その辺りは卑俗な売春婦たちがたむろする薄汚いストリートであったが、彼の住んでいたアパートは文学界では“TheBunker”として知られる有名な安アパートで、ビート・ジェネレーション時代にはその拠点があった場所であり、ウィリアム・バロウズやアレン・ギンズバーグもその住人だった。またニューヨーク・パンク・ブームの火付け役となったリチャード・ヘル、ライターのリュック・サンテもリチャードの隣人だった。彼の部屋は狭かったものの、驚く程に整頓されていた。リチャードのアート作品はスライドのコレクションによって構成されていて、彼曰く、それらのイメージは白黒の広告のテキスト部分をカメラのファインダーから切り抜いて、イメージ部分だけをリフォトグラフ(*再撮影)したものだった。

それらのスライド作品は彼の独自の論理によって分類されていた。例えば、左手に時計を付けている男性モデルたち、ファッション広告で同じ方向を向いている男性モデルや女性モデル、また彼はモデルが対になって歩いているものを“カップル”と分類し、それは女性と男性、男性と男性、女性と女性モデルという組み合わせだった。それ以外にもマルボロの広告で使われていたカウボーイたち(その広告は男性たちにタバコのフィルターを使ってもらうためにデザインされていた)、ペン、家具屋、シリアルの箱に描かれた絵や飲料水Kool-Aidのパッケージ等によって分類された。だが、彼が撮ったスライドには文字やブランド名は一切なく、広告に映されたアイ・キャッチャー(人目を引くモデルやキャラクター等)だけが撮られていた。彼が白黒広告をカラーフィルムで撮影した作品は微妙な色合いをもち、それによって彼の作品が広告写真を撮った写真作品であるという事実を強調していた。彼がリフォトグラフした作品たちは、元々の広告写真とほぼ同じではありながら、視覚的にも概念的にもどことなく違った印象を与えるのだった。リチャード自身が撮り直した作品はオリジナルの広告写真が持つ商業性を明らかに破壊したものだ。彼の作品がなぜこんなにも見る者を惹き付けるのか、ということを説明するのは難しいのだが、それはまさにアート作品そのものであり、それ以外の何ものでもないという事実故であった。

リチャードは1977年頃から雑誌の写真を撮影し始めたが、彼はその頃タイム・ライフ誌のビルの地下でテーマごとに新聞や雑誌の切り抜きページを作ることで生計を立てていた。おそらくその仕事を通して残った雑誌を彼の作品のためのイメージ用ストックとして使うことを思い付いたのではないだろうか。そのイメージとは、アイビー・リーグ出身の広告業界のエグゼクティブたちが膨大な費用をかけてコピーライター、フォトグラファー、広告屋、そして営業担当者たちを雇って考えられたものだった。当時、アート作品は基本的にハンドメイドで作られていて、それはコンセプチュアル・アートでも同様だった。写真作品はペインティングや彫刻作品と比べて、まだ本格的な芸術形式として認められていなかった。1982年頃に私がリチャードのリフォトグラフした作品を見るまでの間に彼が集めたイメージの集積は、マス・コミュニケーションにおける文化人類学的研究とも言えるものだ。それはアンディー・ウォーホールのスープ缶、リチャード・ハミルトンのコラージュ作品やべルント&ヒラ・ベッヒャーによるドキュメンタリー写真作品(類型学的作品)を彷彿させるものだった。しかし、彼によって収集されたイメージはその作品を遥かに超えていた。なぜなら彼の(美的センスによる)イメージのコレクションは、そのイメージに奥深さと概念的側面を与えていたからだ。リチャードの作品は、その意味においては商業的作品よりも明確さに欠けていたが、作品がもつ思慮深さや示唆性の豊かさによって見る者に刺激を与えるものだった。彼の(広告を)リフォトグラフした写真作品は、見る者の胸に迫ってくる何かがあり、また初めて広告がテレビで放映された時代の記憶を呼び起こすのだ。それらの作品は視覚的に再現され、オリジナルとは違った印象を与えながらも、それを作ったコピーライターたちが雑誌のイメージを慎重に選んだように注意深く制作されていた。彼の作品はもはや雑誌の写真ではなくなり、オリジナルの写真と図像的に類似するものであり、それはまるでリチャードが洋服とそのディテールを取り除いて、身体だけを残したかのようだった。それこそが彼の作品を象徴的なものに昇華させていた。そして、その時代は雑誌という媒体が百科事典のような存在で、絶え間なく進化する流行の中で毎月更新されていた頃である。それはまるでヘラクレイトスの川のごとく”同じように見えるが常に変化し続けているもの”であるかのように。

またリチャードの小さな部屋は、保存状態の良いペーパーバックが並んだコレクションそのものであり、それらのカバーはまるで彼のアート作品の類似品のようだった。当時、私も新刊の初版本を収集していたが、ディーラーたち以外であれほどに良質な状態の本を集めている同世代の人間に出会ったのはリチャードが初めてであった。リチャードが厳選したそのイメージによって、その本たちは私の心に強く共鳴したのだった。私の心に先に残ったのが、本なのかそれらのイメージのどちらなのかは分からないが。

初版本を収集する上で最も重要な要素になるのは、その本の状態と、本のカバー/ダスト・ジャケットだ。ダスト・ジャケットは一枚の絵画のようであった。新品同様のダスト・ジャケットは本の価値を飛躍的に高め、使い捨てられる儚さが故に保存されるべき存在となるのだ。ダスト・ジャケットは1920年代から用いられるようになった。ディーラーたちはいつもレア本の話や、ユードラ・ウェルティの処女作『Curtain of Green』のピンクがいつも色褪せていることについて語っていた。無論、私は新品同様のものを持っていたが。それ故に、リチャードの細心の注意をもって保存された良質な大衆文学のコレクションは文化的な恩恵の品々であり、 彼の作品を装飾するものだった。

大衆文学のカバーの多くは、一匹狼の探偵たち、猥せつな男ども、淫らな女たち、といったアウトロー的キャラクターでありながら、熱狂的なまでに注目されるB級映画のお決まりの登場人物たちが描かれていた。 リチャードは1980年にニューヨーク、バッファローで開催された彼の展覧会に向けて制作されたパンフレット『Menthol Pictures』の中でポルノ、ホラーや戦争映画について書いた曖昧な文体のように 、彼は文章の中にこの文学的傾向を時々取り入れていた。1983年に出版された『Why I Go to the Movies Alone』という小説の中で、彼はこのスタイルをさらに発展させた。リチャードはこの小説の中で、著者の「私」という一人称を「彼」、「彼女」という三人称に置き換えている。彼はそれについての解説や、キャラクターたちの感情を押さえ込むことなく、まるで名前のないキャラクターたちのジレンマに陥るような感覚を共有させた。登場人物の物語は、リチャードの広告イメージを使った作品のようにリメイクという方法で毎回作り直されるために、彼らがどの様なキャラクターであるかという手がかりは、ほんの少ししか得られない。また違う人物は、メディアによって作られた実際に入手可能な写真であるかのような写真や、ある場所が現実に存在する場所のように見せる救いがたい環境(つまり、過剰な刺激)について語っているが、それはあくまでも見せかけであり、それが現存するという事実はどこにもないのだ。

執筆と本の収集がリチャードのアート作品の一部なのは明確であり、長年に渡って彼自身でデザインしてきた数多くの本が物語っているように、それは彼のもう一つの才能なのである。彼が写真をリフォトグラフした作品は、芸術的表現とパブリック・コミュニケーションの間にある曖昧な分岐点に属していた。そして丁寧に切り取られたこれらの写真作品には視覚的警告が存在していた。彼はオリジナルの写真の商業的な装飾的部分から、アイ・キャッチャーである脇役のイメージだけを取り除いた。しかし完全には取り除かずに。とはいっても、記憶はそれを許さないだろうが。もちろんリチャードは作品作りのイメージソースとして自分の記憶を利用していた。そのイメージソースとなるオリジナルの広告作品や好みのキャラクターたちは非常に有効なものになった。彼のリフォトグラフした作品は、それらのキャラクターのイメージを奴隷のような状態から解放した。しかしながら、多くのB級映画のキャラクターのように、 彼らはその地位がただの商業的な立場から芸術的なものへと劇的に変化を遂げた後でも、本来持つイメージを完全に振り払うことは出来ないのだ。

リチャードの小説が出版された1983年は重要な年であった。エイズという言葉が使われるようになり、ソニーがウォークマンを発売し、マイケル・ジャクソンの『Thriller』がリリースされ、フィルム・ノワール的要素を持った映画『Blade Runner』が公開された年であった。リチャードはアルフレッド・スティーグリッツの写真作品に倣って「Spiritual America」と題した個展を開催し、映画『Pretty Baby』で当時10歳だったブルック・シールズをゲーリー・グロスが撮影した写真を自身で撮り直した作品を展示した。またその年、彼はフランス、ビルールバンヌにあるル・ヌーヴォー・ミュゼ現代美術館でも個展を開催した。

ニューヨークでも様々なことが起きていた。経済の新たな規制撤廃がなされ、株式市場で前代未聞の急騰が起こり、それにより住宅、アート、初版本の値段など、ありとあらゆるものの値段がつり上がった。発展するポストモダニズムは全てのメディアに影響を及ぼして、社会に歪みを生み出した。それは展覧会のオープニングで黒い服を着ることであったり、高級な食料品店やレストラン、ニュー・ウェーブ・ロックをかける洒落たナイト・クラブなどである。また新しいギャラリーが数多くオープンして、その多くが表現主義のペインターたちの作品を展示していた。そして写真作品がアート作品として認知されるようになった。リチャードは美術用語でポストモダン主義のレディーメイド作品と称されるアプロプリエーション・アート(盗用芸術)の写真による作品を制作した。

リチャードは数年に渡って、使い古されありふれたイメージを使いながら多くのシリーズを制作した。「Sunsets」と呼ばれるシリーズでは、休暇を楽しむ人たちの写真を赤、黄色、オレンジ色を使って世紀末ような灼熱の背景の上に重ねて撮影した。このシリーズが制作されたのは現在のフォトショップのプログラムが開発されるかなり前であり、リチャードはこの作品制作に悪戦苦闘した。「Entertainers」というシリーズでは、ポルノ男優、女優を少しピンぼけにしてリフォトグラフし、写真加工した立て看板にはめ込んだ。また 「Gang」というシリーズでは、スライド・シートのサイズと同じ寸法にした写真を集めて一枚の大判プリント紙の上に配置している。

私は1986年にウィーンで開催された展覧会「Vienna Secession」の中で、Wien-Flussという企画を手がけてリチャードを参加アーティストとして招待した。彼はそれまでに多くのギャラリーで展示をしていたが、どこのギャラリーにも属していなかった。彼がウィーンに滞在している間に、私は彼にインタビューした。その記事は1987年3月号の雑誌『Art in America』に掲載される。その直後に彼はバーバラ・グラッドストーン・ギャラリーの専属アーティストになり、それに続いてフランス、グルノーブルにあるマガザン現代美術館で回顧展の依頼を受けたのだった。彼の回顧展は1988年秋に開催され、私は展覧会用に評論を寄稿した。マガザンでの展覧会は彼にとってフランスで二回目の大きな展示であったが、彼のキャリアにとって重要な転機になった時期であり、アーティストとして大きな飛躍のきっかけになる。

マガザン現代美術館での展覧会で、リチャードはそれ迄に制作した様々な作品群を展示した。「 Sunsets」、「Entertainers」、また多くの「Gang」 シリーズ等といった(広告や雑誌の写真等を)リフォトグラフのシリーズを含めて、彼がこの時期までに制作したあらゆるジャンルの作品を紹介した。例えば、 楽器を持っていないロック・ミュージシャンたちを撮影した「 Bitches and Basters」(1985−1986年)、 パパラッチのカメラから顔を隠そうとしているセレブリティーや犯罪者たちを撮影した 「Criminals and Celebrities」(1986年 )、波の作品「Real Big Surf」(1985年)、巨大なタイヤがついた粉砕機トラックを撮影した「Creative Evolution」(1985年) (ちなみにこのタイトルはフランスの哲学者アンリ・ベルグソンにちなんで付けられたものである)、バイク野郎のガールフレンドたちを撮影した(この作品の元となったイメージは、自分のガールフレンドの写真を雑誌に投稿した写真から構成されている)「Live Free or Die」(1986年)、(漫画で描かれた)無人島での陳腐な空想的イメージを風景写真の上に白の印刷で重ねた作品「Unitle(Desert Islands)」(1986年)等が展示された。 そこには戦争ギャングたち、セックス・ギャングたち、カウボーイ・ギャングたちが映されていた。またこの展覧会では、彼が漫画を引用したり、カスタマイズした漫画を紙に手描きした作品も発表した。そしてこれは彼の初めてのジョーク・ペインティングの作品であった。 それ以外にも単色で塗られたキャンバスの中央の端から端に文章が二次色(*色空間の中で原色を混ぜ合わせて作られた色)でシルクスクリーンプリントされた作品も展示していたが、それらの作品は視覚をわずかにぼやけさせる効果を生んでいた。

そのユーモア溢れるペインティング作品は、まるでポスト・ペインタリー・アブストラクション( 絵画的抽象以後と称される) の作品が偽物のコミカルなコンセプチュアル・アートに変質したかに見えた。作品に刷られたジョークの聴覚と口述に訴える面白さとは、見る人にそれが読めるか読めないか、笑えるか笑えないかという選択の自由を与えるものであった。広告の世界から引用してきたイメージを異なる文脈で表現したアプロプリエーション・アート的な写真作品からユーモアのあるペインティング作品に至る視覚的刺激こそが、彼の全作品が持つ生来の資質なのだ。

マガザン現代美術館での展覧会を開催した頃から、リチャードは工業用のファイバーグラスを使用して車のボンネットの型を作り、そのボディーをグレーの下塗液で塗装した彫刻作品を作り始めた。彼はその作品を「hoods」と名付けたが、それはストリートのギャング用語で「トラブルメーカー」や「ギャングのメンバー」という意味があったようだ。彼はこの作品に石工や木工の仕口を複合したものを添えて、作品を壁に立てかけたり、床の上に直立させた。「Hoods」のシリーズは、リチャードの第二の趣味である車や車の装飾品に対する興味を反映するものだった。1980年代後半、短期間だったもののリチャードは、ジョン・ドッグというアーティスト名を名乗り、車のタイヤやタイヤの装飾品からポスト・ミニマリズムの彫刻作品を作っていたアート・ディーラーのコリン・デ・ランド(ギャラリー「American Fine Arts」のオーナー)と共作していたのではないかと疑われていた。結局それが証明されることは無かったが。その後リチャードはセレブリティーたちの写真を収集し始めた。特にパメラ・アンダーソンのようなB級の女優たちのプリントだった。それらはサイン入りのもの、サイン無しのもの、またはリチャード自身がサインを入れたものもあった。 彼はその写真を組み合わせ、身の回り品、ボタンや切り離されたサイン等と一緒に額に入れた。

多くのアーティストたちは自身が魅せられている事柄について表現をしていた。カラヴァッジオはおぞましい殺人に魅了されていたようであり、またラリー・クラークはアウトローのような若者たちを作品にした。リチャードはといえば、かつての姿を失った大衆文学の世界に深く魅せられていた。

リチャードが手間のかかるシルクスクリーンのテクニックを使うようになってから、彼には大きなスタジオ、スクリーンを洗うための庭用のホース、そして彼を手伝ってくれるアシスタントが必要となった。彼は背景、文章、漫画を組み合わせたスタイルや、多数のパネルから成る作品を制作するようになった。それらは彼が描いたすべてがジョークなものや、また部分的にジョークを入れた作品が組み合わされ不完全ながらも一つになり、そして言葉の波のように動き始める。また彼はセレブリティーたちが使わなかった小切手を拝借してコラージュのペインティング作品を制作したり、タイヤ製の植木鉢から作られた合成樹脂製の彫刻(これはジョン・ドッグの作品を真似たのか?)を制作したり、車を丸ごと彫刻作品へと作り替えたりもした。また彼は1990年代、ロサンジェルスの借家を一時的な展覧会場へと変えてしまっていた。

1980年後半にリチャードは彼のスタジオをニューヨークのアップステートに移し、作品を展示、貸出、時にはRichard Princeiania(リチャードの作品やオブジェを意味する)を販売できるようなライブラリ、ギャラリー、ショップを兼ね備えたスペースを作った。リチャードはカメラをいつも持ち歩いて、使い古され放棄されたバスケットゴールや、彼が参加したバイカーのパーティーで乱痴気騒ぎをしている酒飲みたち、彼の女性アシスタントやモデルを撮影していた。私が1995年から編集をしていた雑誌『Purple』で、そのモデルの写真を特集した。彼は一軒家を購入し、それを彫刻作品へと変えてしまった。その作品はグッゲンハイム美術館によって買い取られたが、落雷のために焼け落ちてしまった。

過去10年のリチャードのペインティング作品は、 彼が収集した大衆文学本のカバーや、過去の広告等をリフォトグラフした作品から影響を受けている。2003年に初めて展示されたペインティング作品「Nurse」では、デジタルスキャンした写真の上に筆を使って帽子を被り手術用のマスク姿の女性を描いている。このシリーズはデザイナー、マーク・ジェイコブスの2008年春のコレクションのインスピレーションとなり、彼はリチャードとコラボレーション商品を作った。他のシリーズでは、インクジェットで出力したポルノ写真の上にウィレム・デ・クーニング調の色を使ってペインティングした。また2008年の「Canal Zone」シリーズでは、先住民族アボリジニや女性のセミヌード写真を白黒でリフォトグラフしたプリントをキャンバスに貼り付けてコラージュした作品があり、その中には、マスクを逆向きに付けたかのように目や口が隠されたコラージュもある。また、2010年の「Tiffany」というペインティングのシリーズでは、ニューヨーク・タイムズ紙に掲載されたティファニー店の広告やニュースの断片をターナー(イギリスの有名なロマン主義画家)の混濁した色の世界へと引きずり込んでいた。

リチャードの色使いと色彩感覚はウィレム・デ・クーニング、ロバート・マザーウェルやジャクソン・ポロックのスタイルから派生しているようだ。彼は写実的な線や平面的かつ彼ら特有のスタイルをミックスさせている。また彼の作品の構図はとても意図的であり、それは非常にうまく構成された視覚法によって見る側の視線を捕らえて離さない。彼の作品点数はロバート・ラウシェンバーグのそれに匹敵する程でもある。リチャードにとって労働や作品制作、そして書籍の収集は生きる喜びなのだ。彼のスタジオ訪問は、その世界に引き込まれる程に至福な体験である。なぜならば、スタジオには多くの制作過程の作品があるだけでなく、知的財産に囲まれているリチャードの生活を目の当たりにすることができるからだ。その知的財産とは、もちろん彼の収集する厖大な書籍である。

アーティストたちは仮想世界を描いている。そして美術館で保存されているアート作品の多くは、徹底して厳かなものである。ヒエロニムス・ボスの「Hell」は、恐ろしい戒めに満ちており、またエドワード・ホッパーの「Nighthawks」(1942年)は、陰鬱なロマン主義であり、詩的な内面世界へと向わせる作品である。これはポップ・アートの出現によって完全に変革してしまい、芸術の卓越的な力は商業的な逃避の光の方へと及んだのだ。しかし、商業は芸術と競合しながらも、色情を刺激する仮想世界を作り上げていた。リチャード・ハミルトンやアンディー・ウォーホールといった初期のポップ・アーティストたちは、1950年代に人々が目新しいものとして取り入れ始めた大衆文化を扱った。ポップ・アートのアーティストたちは、ウォーホールの作品「Most Wanted Men」のように、これといった特異性や論理上の分類を伴わずにイメージの描写をして、またそれ以外の数多くのアーティストたちはマリリン・モンローを描いていた。リチャードがリフォトグラフする写真作品や大衆文学を収集した作品は、その莫大なイメージの投影された世界の礎であった。彼が見るその世界観とは、圧倒的に男性優位な世界だった。しかし、その男性像は映画「The Wild One」の中でのマーロン・ブランド や、ジャック・ケルアックの小説を映画化した作品「 On the Road 」の中でニール・キャサディ(後にディーン・モリアーティーへと改名)が演じたアンチ・ヒロイズムな男性像とは対立するものだった。リチャードは、キャサディ自身が所有していた「 On the Road 」の一冊と共に、その他多くの彼のサイン本を所蔵している。マーロン・ブランドはバイクギャングのメンバー役を演じ、ウォーホールはそのイメージを反復しシルクスクリーンで刷った。ケルアックがポケットにペーパーバックを入れながら煙草を吸っている最も有名な写真は、ホッパーの絵が描く心の孤独を描き写していた。そして、それは往々にして男性的であったが、ケルアック自身が持つ男らしさやブランドが演じたバイク野郎が持つそれとは異質だった。リチャードが描く男性像とは労働者階級に分類されるべきものだ。しかし、それはカール・マルクスが唱えた労働階級者とは相反していて、むしろマルセル・デュシャンが描いた中産階級の夢想家たち、特に「The Large Glass」という作品の中に描かれた夢想する9人の男たちに近い存在だった。恐らく彼らは、ガラスの上部に描かれた一人の新婦をウィンドー・ショッピングをしている人のように眺めながら、全ての男たちがするように頭の中では彼女の服を脱がせる想像をしているのだろう。そして、それはオリジナルの作品タイトル『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』によって言明されているのだ。

デュシャンの仮想的世界は事実に基づくものである。誰もが夢想をしながら、ウィンドーの飾り付けをすることやウィンドー・ショッピングをする行為はまさにそれと同じなのである。リチャードはマーシャル・マクルーハンが広告や雑誌の通俗的な表現、車文化や大衆文学について言及したように、フォーク・アートの形態を変えずに再構成する。彼は使い古された商業的表現を、既存の大衆文学やイメージの仮想世界から選び抜いた作品を使って、象徴的で似通った肖像へと変えてしまう。そして30年経った今、リチャードは自身の世界を極めたアーティスト、かつキュレーターなのである。彼は自身が収集した芸術品(=書籍)を使った作品を展示する。そしてその作品どれもが唯一無二のものなのだ。

彼の作品タイトルにはいつもその作品の核心が持つ風刺が込められている。バイク野郎のガールフレンドや大草原にいるカウボーイたちの写真は、ギャグ、漫画、使われなかった小切手、マスクをしたナースたち、そしてウィレム・デ・クーニングのスタイル のように、彼の好みの登場人物たちなのである。そしてバイク野郎が心から愛するガールフレンドであれ、仕事をするカウボーイたちであれ、彼らはリチャードが「social science fiction(社会的SF)」と呼ぶ、橋渡し的な世界に順応するのである。広告の中のバイク野郎のガールフレンドやカウボーイは、現実の世界において社会的役割を果している。彼らはカウボーイやバイク野郎として、多かれ少なかれ自身が属するグループの一員として自己表現をしているのだ。彼らはみな商業的なメディア社会の住人たちであり、実在化したものを演じているのである。

すべての人は社会という劇場のために着飾り、自分がなりたいと願う誰かの姿になろうとしている。かつてリチャードが言っていたように、マス・メディアは「身近な奇妙さ」を作り出す。ニューヨークとロサンジェルスはマス・メディアの中心都市であり、マーケティングと社会的な交流において親密性が誇張される場所である。ウォーホールはかつて、一度「大衆化」したものは、元には戻れないのだと言った。それはすべてにおいて真実である。あらゆる幻想は常にメディアによって視覚化され続けてきた。そしてアイロニーは生活の一部でもある。リチャードはそのアイロニーという鉱脈を掘り下げていった。大衆文学という鉱脈を。しかし、彼はより高い権限を与えるために自身が発見してきたイメージを盗用したり、描き直しをするということはしなかった。(その人たちが象徴的存在である場合によくあることだが) 彼は価値判断や歪みを加えることなく、フィードバック・ループのような世界を再生する。(*フィードバック・ループ:回路理論の用語であり、出力と入力が繋がっていて、輪を描いている状態を言う。出力、入力が繰り返されることにより、大きな変化を起こすこと。 (http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%D5%A5%A3%A1%BC%A5%C9%A5%D0%A5%C3%A5%AF%A5%EB%A1%BC%A5%D7)彼は自身が「もう一度見直してみること」と言うように、大衆文学を完全に自由な存在とし、それにより彼の作品に芸術という価値を与えるのだ。

ルイス・ハイドは1978年に出版された彼の有名な著書『The Gift』の中で、芸術とは文化へのギフトだと論じた。芸術作品は厳選された場所の中心に置かれ、保護、尊重、崇拝されるもので、芸術家とは聖職のように地位ある職業であり、アーティストの才能は神から与えられたギフトと呼べるものなのだと。しかし商業がギフト交換を模倣する現実世界においては、広告はギフトを与え誘惑の言葉を用いて選択肢を広げ、選択の自由を可能にする。つまり、広告は消費者に魅力的な文句とイメージを与えながら、購買心を誘惑する。そして、買うという行為は、自分自身へのギフトなのだ。商業においては、広告等が大衆に影響を与え、またその大衆を形成する個々人にも及んでいる。その結果、匿名の個人たちがお互いに(広告等を通じて商品を売買することを通じて)交流し合うことを可能にすると言及した。私たちは広告が作り出す服装や職業、ライフスタイル等のイメージを通してお互いにコミュニケーションをとっている。市場は今、かつて宗教がそうであったのと同じくらい人間の精神の一部となっている。デュシャンが憶測したように、エロスとは商業的な導きであるが故に葛藤を生むのである。エロスの充実とは人間がセックスや美学に求める感情なのだ。ハイドが述べているように、これこそが私たちが「商業は人々に共通する精神を与えるものではなく、社会生活は市場からの影響を受けてそのスタイルを形成する」と思い描く世界である。また彼は、今は現実的、かつ自己演出の時代であり、映画の中の私立探偵のように異端者の客観的なスタイルを取り入れられる者がこの世界で生き残れるのだと言い添えた。

リチャード・プリンスのアート作品で使われるパーツたちは、すべてのことを象徴している。彼のユニークな書籍のコレクションは、まさに制作中の美術館であり、彼が若かりし頃に大衆文学、ドロップアウト・カルチャーや文学に捧げた情熱が実を結んだ結果なのである。ジョークは緊張を解き放つ。ナースのペインティング作品は漫画小説に対する敬意を暗示している。リチャードは美術館で飾られる芸術作品にいつも注ぎ込まれる「深刻さ」というものを一時的に排除するのだ。あなたがリチャードのジョークの作品を見て必ずしも笑わないということや、裸の女性が写っている作品を見ても性的な幻想を抱かなかったり、彼の車の作品をただの運転するための道具としてしか見ていないという事実こそがアートの生み出す効果なのである。彼は批判や判断を独自にすることなく、アイコンが象徴するイメージを使いながら私たちになじみ深いクリシェを提示することによって、人間の深層心理の基本について考えさせてくれるのだ。そして、リチャードは商業的な意味を崩壊させ、人を魅了する精神で新しい商業的なつながりを生み出すことによって、私たちが創り出したこの世界を自由で気ままに考えることを可能にするのだ。

パリ, 2010年10月

翻訳:大山幸希子 協力:大智由実子

(c) Jeff Rian/RSP 2011

from french text for RICHARD PRINCE/AMERICAN PRAYER by LA BIBLIOTHEQUE NATIONALE DE FRANCE

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